コンサート


失われた時を求めて

キリストの受難から2000年 奏で続けられた音楽の歴史


2007年4月3日(火)19時開演
桜坂セント・マルティーヌ教会
地下鉄七隈線 桜坂駅 徒歩1分
専用駐車場あり
TEL092−734-3800


企画、主催 ハルモニー・セレスト
出演 岩田明子(ソプラノ) 岩田耕作(オルガン)
   井上曜子(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 橋口武史(リュート)
   セミナー「グレゴリオ聖歌」受講生(グレゴリオ聖歌)
   ハルモニー・セレスト福岡、コーロ・ピエーノ有志(合唱)


お問い合わせ:ハルモニー・セレスト(岩田)
TEL/FAX 092−471−3987
E-mail i@hc.fantasia.to
http://hc.fantasia.to


入場料 一般     前売り3000円 当日3500円
    高校・大学生 前売り2000円 当日2500円
    中学生以下  無料
チケットの購入はこちら


解説
目次

序文プログラム受難説とイースター暗闇の聖務日課
哀歌による九つのルソン聖木曜日第1ルソンレスポンソリウム
私の魂は悲しみに満ちてオリーブ山でクリストゥス・ファクトゥス・エストゥ
アヴェ・ヴェルム・コルプスタントゥム・エルゴクルクス・フィデリス


序文
個人的にキリスト教信者でない私にとっては、イエス・キリストという一宗教家の死は、他の多くの非業の死を遂げた人々に比べて決して特異なものではありません。

しかしキリストの十字架上での死をきっかけに、その後現代に至る2000年間に起こったさまざまな出来事、世界に与えた大きな影響を思うとき、この歴史上の一事件の重要性を痛感ぜずにはいられません。

人々はキリストの名の下に、時には病んだ人に手を差し伸べ、貧しい人に施しを行い、また時には異教徒に対して戦争を行い、略奪の限りを尽くしたのです。

毎年訪れる受難節には、信者たちは断食と祈りを捧げ、あらゆる時代に、キリストの死を偲ぶ音楽が奏でられ、彫刻や絵画にキリストの受難が描かれてきたのです。

宗教は多くの優れたものや忌むべきものを生み出す原動力となりながら、人間の歴史を織り成す糸を紡ぎ続けてきました。

今回のプログラムは中世から近代に至る、あらゆる時代の音楽を、歴史とともに振り返っていきます。

十字架の道から2000年間、人々の祈りは虚しく、世界はいまだになんと多くの争いと不安に満ち溢れていることでしょうか。



プログラム
グレゴリオ聖歌
エレミヤの哀歌 聖木曜日のための第1ルソン
オリーブ山デ In monte oliveti レスポンソリウム


■後期ルネッサンス(16世紀)
ラッソ エレミヤの哀歌(聖木曜日のための第1ルソン)
M.A.インジェニェーリ オリーブ山デ In monte oliveti


■バロック(17-18世紀前半)
F.クープラン エレミヤの哀歌(聖水曜日[聖木曜日]の第1ルソン)
M.A.シャルパンティエ 私の魂は悲しみに満ち Tristis est anima mea


■グレゴリオ聖歌
クリストゥス・ファクトゥス・エストゥ Christus factus est レスポンソリウム
タントゥム・エルゴ Tantum ergo


■W.A.モーツァルト(1756-1791)古典派(18世紀後半)
アヴェ・ヴェルム・コルプス ave verum corpus K.618
タントゥム・エルゴ Tantum ergo K.142
主よ私を哀れんでください miserere mei Deus K.85


■グレゴリオ聖歌
クルクス・フィデリス Crux fidelis 賛歌


■ガブリエル・フォーレ(1845-1924)近代(19世紀後半)
アヴェ・ヴェルム・コルプス ave verum corpus Op.65-1
タントゥム・エルゴ Tantum ergo Op.65-2
祈りながら En priere


受難説とイースター

クリスマスとイースターはキリスト教にとってもっとも重要な二つの行事です。

日本ではクリスマスの方が商業ベースにも乗ったこともあって有名ですが、教義てきにはイースターの方が圧倒的に重要といえます。

それはそもそも新約聖書が語る「新しい契約」と、受難から復活にかけて起こった出来事が直接関係しているからです。

旧約時代には、モーセ以来多くの立法が制定されましたが、それと同時にユダヤ教では立法を犯す「罪」という概念が生まれました。

そしてこの「罪」の購いとして、生贄の動物を捧げるという儀式が行われました。

キリスト教の「新しい契約」では、この罪の購いとして、神の子であるイエスが捧げられ、それを信じることによって、私達の罪が許されるというものです。

ただ問題は、イエスが死んだものであるのなら、神として崇める存在にはならないということです。

そこで次第に人々は「イエスは死んだ三日後に復活し、やがて天へと上っていった」と信じるようになっていきました。

イエスがエルサレムに入場してから、十字架上で死を迎えるにいたる、復活前の1週間に起こった出来事を記念して、この1週間を聖週間と呼んでいます。

特に聖木曜日から聖土曜日(フランスでは聖水曜日から聖金曜日)にかけては「暗闇の聖務日課」と呼ばれる重要な儀式が行われました。


暗闇の聖務日課

聖務日課とは、もともと聖職者らが行う日々の儀式で、正式には夜明け前に行う朝課から、就寝前の祈りまで、それぞれ決められた時間に毎日8回行われていました。

暗闇の聖務日課は聖木曜日から制度曜日にかけての三日間に行われる朝課のことを指します。

15本の蝋燭を、哀歌及び詩篇誦えのたびに一つずつ消して行き、最後には暗闇となることからそう呼ばれるようになりました。

暗闇の聖務日課は午前2時ごろから夜明け前まで、4時間以上に渡って行われていました。

もちろんこのような時間帯は、一般的な生活では就寝時間に当たります。

このため17世紀フランスでは、数時間前、つまり前日の就寝前にずらして行われました。

すなわち、聖木曜日は聖水曜日、聖金曜日は聖木曜日、聖土曜日は聖金曜日と、曜日も1日づつずれてしまいます。

シャルパンティエを初め、クープランなどのフランスバロックの作曲家のルソンを聞くときには、このことを注意しなくてはなりません。


聖木曜日(フランスの聖水曜日)

イエスの死の前日に当たります。

重要な出来事としては、最後の晩餐、ゲッセマネ(オリーブ山)での祈り、イエスの逮捕などがあります。

新約聖書の四つの福音書では、聖金曜日と伴に多くのページが、この日の出来事について費やされています。


     聖金曜日(フランスの聖木曜日)
イエスが十字架に付けられ、死を迎え、墓に葬られる日です。
     聖土曜日(フランスの聖金曜日)
イエス復活の前日に当たります。


哀歌による九つのルソン

カトリックの暦によるさまざまな聖務日課では、それぞれの日に歌われるグレゴリオ聖歌や、使われる聖句が定められています。

「暗闇の聖務日課」では旧約聖書の哀歌をもとにした九つのルソンが朗誦されたり、歌われたりしました。

また、これらのルソンにあらゆる作曲家が曲をつけました。


聖木(水:仏)曜日第1ルソン

                    哀歌第1章1-5節


Incipit Lamentatio (H)Jeremieae Prophetae
預言者エレミアの嘆き、ここに始まる。


哀歌はエレミヤ書の後に置かれていることから、長い間エレミヤの作と信じられてきました。

木曜日(フランスでは水曜日)第1のルソンの冒頭にこの節が加えられていることからもそのことが伺えます。

しかし近年の研究では、これはエレミヤの作ではなく、複数の名の知られていない別人によって書かれたとされています。

いずれにしてもエルサレムの陥落を目撃した作者たちは、それ以前のエレミヤの訴えを耳にしたことだろうし、これらの哀歌を歌う主人公としてエレミヤを思い描いていたことは間違いないでしょう。


     1節 Aleph
quomodo sedet sola civitas plena populo
なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が。
facta est quasi vidua domina gentium
寡婦(やもめ)となってしまったのか、多くの民の女王であったこの都が。
princeps provinciarum facta est sub tributo
国々の姫君であったこの都が、奴隷となってしまったのか。


詩はエルサレムという町を、一人の女性にたとえて呼びかける形になっています。

現在でも西洋の言語には、名詞に男性形、女婿形を採るものが多く見られますが、人間以外の物や場所などにも性があるという考え方は古くからあったようです。

寡婦、女王、姫君、奴隷はすぺてエルサレムの町をたとえています。

寡婦はこの町にいた王が失われたことを、女王はこの町がイスラエルの首都であったことを、奴隷は今ではバビロニアの支配下に置かれことを意味しています。

また当時夫を失った女婿は、もはや物乞いをして生活するしかなく、街中に座って物乞いをする寡婦の姿はよく見かけられたようです。

活気の無くなったエルサレムを「一人で座る」寡婦の姿になぞらえています。


     2節 Beth
plorans ploravit in nocte et lacrimae ejus in maxillis ejus
夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。
non est qui consoletur eam ex omnibus caris ejus
今は慰めを与えない、彼女を愛した人のだれもが。
omnes amici ejus spreverunt eam, et facti sunt ei inimici
友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。


1節に続き、荒廃したエルサレムを、涙を流す寡婦にたとえています。

また、はエルサレムが栄えていたころ友好関係にあった国々が、エルサレムの没落とともに離反して言った様を「彼女を欺いた友」になぞらえています。


     3節 Gimel
migravit Juda propter adflictionem et multitudinem servitutis
貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き
habitavit inter gentes nec invenit requiem
異国の民の中に座り、憩いは得られず、
omnes persecutores ejus adprehenderunt eam inter angustias
苦難のはざまに追い詰められてしまった。


ユダはイスラエルの12部族の一つです。

当時イスラエルは南北に分裂しており、ユダの部族を中心にエルサレムを首都とした南側はユダ王国と呼ばれていました。

現在でもイスラエルの民族をユダヤ人と呼ぶのは、彼らはユダ部族の末裔だと信じているからです。

エルサレムが陥落すると、上層階級を中心としたユダヤ人はバビロニアに捕虜として連れ去られ、半世紀以上異国に滞在することになりました。


    4節 Daleth
viae Sion lugent eo quod non sint qui veniant ad sollemnitatem
シオンに上る道は嘆く、祭りに集う人がもはやいないのを。
omnes portae ejus destructae sacerdotes ejus gementes
シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。
virgines ejus squalidae et ipsa oppressa amaritudine
シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。


シオンはエルサレムの神殿があった場所。

後には神殿そのものや、神殿を中心としたエルサレムやイスラエルを指す固有名詞となりました。

「シオンの道」は文字通り神殿へ向かう道であり、人間が神をひれ伏す意思をも意味しているのです。

エルサレムと同様、ここでも「シオンの道」が擬人化されています。

「シオンの縄文」ではシオンはエルサレムを、「シオンの苦しみ」では、シオンはイスラエルを意味しています。

「乙女ら」はイスラエルの民のたとえです。


     5節 He
facti sunt hostes ejus in capite inimici ejus locupletati sunt quia Dominus
 locutus est super eam
主は懲らしめようと、敵がはびこるのを許し、苦しめる者らを頭とされた。
in multitudinem iniquitatum ejus
シオンの背きは甚だしかった。
parvuli ejus ducti sunt in captivitatem ante faciem tribulantis
彼女の子らはとりことなり苦しめる者らの前を引かれて行った。


4節と同様、シオンはイスラエル、あるいはユダヤ人を、「彼女ら」はイスラエルの民を意味しています。

エルサレムの陥落の原因として、作者はエレミヤが説いてきた「神へのそむきの罰」であると断定していることは、作者がエレミヤ的を考えを持った人物であったことをうかがわせます。


     *
(h)Jerusalem, convertere ad Domino deum tuum.
エルサレムよ、汝の主なる神の元へ立ち返れ。


三日間の「暗闇の聖務日課」で歌われる九つのルソンの歌詞には、哀歌の各部分に加えて、九つのルソン共通の、この1節が、最後の節として歌われます。この一言は、エレミヤが生涯を通して訴え続けてきたメッセージとも言えます。


レスポンソリウム(応唱)

一般に詩篇など(ここでは哀歌)の聖書からの一説の独唱の後に、応答として合唱によって歌われる部分を指します。

第1及び第2レスポンソリウムのテキストは新約聖書の福音書によるもので、イエスが十字架に掛けられる前夜(聖木曜日)に行われた弟子たちの最後の晩餐中のイエスの予言と、その後オリーブ山(あるいはゲッセマネ)での出来事を綴ったものです。

なお、時間的な経過としては第2レスポンソリウムのテキストのほうが先にくるべきなので、ここでは順番を入れ替えて解説します。


私の魂は悲しみに満ちて(聖木(水:仏)曜日第2レスポンソリウム)

Tristis est anima mea usque ad mortem
私の魂は死ぬほどの悲しみに満ちている
Sustinete hic et vigilate mecum:
あなた方はここに留まり、私とともに目を覚ましていなさい


イエスは父なる神によって定められた十字架刑という運命が近づいたことを感じ、父に祈るために弟子たちを連れてオリーブ山に行きます。

来るべき運命に悲しみもだえたイエスが弟子たちに漏らした言葉が上記のものです。


nunc videbitis turbam quae circumdabit me
やがてあなた方は私を取り囲む群衆を見るだろう。
Vos fugam capietis
あなた方は逃げ去るだろう。
et ego vadam immolari pro vobis.
しかし、私はあなた方のためにいけにえに捧げられるのです。
Ecce appropinquat hora
見よ。時は満ちた。
et Filius hominis tradetur
そして人の子は引き渡されるのだ。
in manus peccatorum.
罪人達の手に。


この部分は時間的に戻って、最後の晩山中にイエスが言った予言になります。

イエスの予言どおりこの後捉えられたイエスを、弟子たちは裏切って逃げだします。

また、イエスはしばしば自分のことを「人の子」と呼んでいます。


     聖水(木:仏)曜日第1レスポンソリウム


( )内の文章は前後関係を分かりやすくするために、聖書から引用したものです。



オリーブ山で(聖(水:仏)木曜日第1レスポンソリウム

In monte Oliveti oravit ad Patrem:
オリーブ山にて彼は父に祈った。
Pater, si fieri potest, transeat a me calix iste.
父よ。御心ならば、この杯を私から取り除けてください。
Spiritus quidem promptus est, caro autem infirma.
心は燃えていても、肉体は弱い。
fiat voluntas tua.
(しかし、私の願いではなく)御心のままに行ってください。


この部分は、時間的には第2レスポンソリウムの最初の2行の後に来るべきです。

キリスト教では「魂」と「肉体」は別の存在で、「肉体」の死後も魂は永遠に行きつずけると考えられています。

また、人間は「肉体」によって罪を犯すと考えられています。

「心は燃えていても、肉体は弱い。」

とは、神の子でありながら人間の肉体を持ったイエスが、肉体によって誘惑を受け、魂との葛藤をしていることを表しています。

イエスにとって恐れとは、肉体による誘惑であり、そこから逃れようとする思いは罪なのです。

なお、「杯」は父なる神によって定められた十字架刑という運命を意味しています。


(イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちの所に戻ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。)
Vigilate, et orate, ut non intretis in tentationem.
誘惑に囚われないように、目を覚まして、祈っていなさい。


どうやらキリスト教では「眠気」も肉体による誘惑で、祈らずに眠ってしまうのも罪のようです。

ここでは、誘惑に打ち勝って十字架に向かうために立ち上がったイエスの力強さと、眠り込んでしまった弟子たちの弱さが対比されています。


クリストゥス・ファクトゥス・エストゥ

Christus factus est pro nobis
キリストは私達のためにこうあらせられた
obediens usque ad mortem autem crucis.
いつも、十字架の上で死に臨むときでさえも、従順であらせられた。
propter quod et deus exaltavit illum
それゆえに、神によって、高く上げられ、
et dedit illi nomen, quod est super omne nomen.
すべての名前に優る名前を与えられた。
                   フィリピの信徒への手紙 2章8節〜9節 より。


フィリピの信徒への手紙は、新約聖書に収められた21の書簡の内の一つで、使徒パウロがフィリピのキリスト者共同体に送ったものです。

イエス・キリストが父なる神に対して、いかに従順であったかが述べられています。

Ave verum corpus natum de Maria Virgine,
救いなる、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ。
Vere passum immolatum in cruce pro homine,
人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け、
cujus latus perforatum unda fluxit cum sanguine,
貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。
Esto nobis praegustatum mortis in examine.
我らの臨終の試練をあらかじめ購い給え。


イエスに対する祈りです。

ユダヤ教ではもともと、罪は魂の死を持って購わなくてはならないと信じられています。

キリスト教はこの「罪の購い」は、神の子イエスの十字架上での死を持って清算されたもので、その事実を受け入れることによって、魂が救われるという考えの上に立っています。


O Jesu dulcis,
優しきイエスよ。
O Jesu pie,
慈悲深きイエスよ。
O Jesu fili Mariae,
マリアの子イエスよ。
Tu nobis miserere.
我らを哀れみ給え。


この部分はもともとの賛歌のテキストにはありません。イエスへの賛美が述べられています。


タントゥム・エルゴ
(賛歌)


Tantum ergo sacramentum
だから私たちも、この偉大な秘跡を
Veneremur cernui,
ひれ伏して崇めよう。
Et antiquum documentum
そのとき、古い教えは、
Novo cedat ritui;
新しい儀式に取って代わられる。


聖書は旧約と新約の二つの部分から出来ています。

キリスト教では、イエス以前にユダヤ人によって守られてきた「古い教え」と、イエスによってもたらされた「新しい教え」があると考えられています。

そして、その「新しい教え」はイエスの十字架によって成立したと信じられているのです。

「偉大な秘跡」は、イエスの十字架を意味しています。

もちろん「新しい教え」と同時に、宗教「儀式」も変わりましたが、ここで「新しい教え」と言わずに「新しい儀式」と言っているのは、むしろ同じ言葉を使用するのを避けた詩人の配慮だと思われます。


Genitori Genitoque
父と、御子に、
Laus et jubilatio,
賛美と喜びがあるように。
Salus, honor, virtus quoque
栄え、誉れ、力、
Sit et benedictio;
そして祝福があるように。
Procedenti ab utroque
御二方から遣わされた[聖霊]にも
Compar sit laudatio.
等しく賛美があるように。


キリスト教は、神道などの「八百万の神」を信じるのではなく、ユダヤ教やイスラム教と同じ、一人の神のみを信じる一神教です。

ただ、この神は一人でありながら、父、子(イエス)、精霊の三つの位格からなるという「三位一体」の考え方が4世紀以降「正統教義」とされてきました。

ここでは、この「三位」それぞれに賛美が述べられています。


クルクス・フィデリス(十字架への賛歌)

Crux fidelis, inter omnes arbor una nobilis;
、唯一けだかき十字の木、
nulla talem silva profert, flore, fronde,
その葉その花、その実り、いずこの森に、かくやある。
germine. Dulce lignum, dulci clavo, dulce pondus sustinens!
担い給える麗しき、この木、この釘、この重荷。


テキストは6世紀に書かれた賛歌「歌えわが舌 Pange lingua」によるものです。

十字架そのものが賛美の対象となるのはカトリック独特の考え方といえます。

プロテスタントでは、三位一体の神のみが信仰の対象とされています。

これに対してカトリックは、ここで取り上げられている十字架の他、天使や聖母マリア、使途にいたるまで、あらゆるものが信仰の対象となります。

また、これらの姿を描いた絵画や彫刻、像を初め、使途の遺骨やキリストに纏わる遺物までが、信仰の対象として崇められてきました。

もちろんこのような風習が、芸術の発展に寄与したことはいうまでもありません。


Pange, lingua, gloriosi proelium certaminis,
歌えわが舌、誉れある、かの戦いの勲しを、
et super Crucis trophaeo dic triumphum nobilem, qualiter
戦い取りし十字架の、いとも尊き凱旋を。
Redemptor orbis immolatus vicerit.
屠られ給いし救い主、いかに勝ちしか告げよかし。


ここではイエス・キリストが賛美されます。

キリストが十字架を担い、われわれの救いとして、それを勝ち取ったことが述べられます。

ここでも興味深いのは、カトリックでは、キリストそのものによって救われるのではなく、キリストが担った十字架によって救われるという考え方が強く現れているということです。


De parentis protoplasti fraude Factor condolens,
はじめの親の罪の実を、食して死地に亡び入り、
quando pomi noxalis morte morsu corruit,
騙されしをば悲しみて、創りの神は罪の木の、
ipse lignum tunc notavit, damna ligni ut solveret.
禍許す、他の木をば、取りて知らしめ給いたり。


「はじめの親」はアダムとエバ、「罪の実」はエデンの園のりんごを現しています。

聖書によると、人間は初め神に作られたときには清らかであったのに、エデンのりんごを食べたことによって罪が入ってきたそうです。

このテキストでは、罪をもたらした「りんごの木」と、救いをもたらした「十字架の木」が対比されています。

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